信楽焼の歴史

信楽焼の歴史

      時代      内容
奈良時代 天平14年(AD742)聖武天皇が紫香楽宮を造営した。(宮町地区で柱根、木簡など多数出土)
黄瀬地区の甲賀寺跡では軒丸瓦や軒平瓦が発掘され、信楽町の文化財に指定されている。
鎌倉時代 穴窯により甕、種壷、すり鉢、等の日用雑器が多く焼かれるようになり、信楽焼が始まったとされてる。
安土・桃山時代 「侘茶」の普及から茶陶器がもとめられた。
江戸時代 登り窯が築かれ、茶壷(多種、御用茶壺も)や梅壷、味噌壷、徳利、茶碗、土鍋等の日用雑器類の生産が盛んとなる。
明治・大正 

茶壷が金属缶やガラス瓶の出現により不振となり、製糸用の糸取り鍋、醸造瓶、汽車土瓶、便器等が生産されるようになる。

海鼠釉(なまこゆう)が開発され、この釉薬をつかった火鉢が全国を席巻する。

昭和 第二次大戦中は陶製武器(地雷や手榴弾の薬匡、化学兵器用の耐酸容器等)や代用陶器(橋の欄干の擬宝珠、ガスコンロなど)も作られる。
昭和30年代半ば、生活様式の変化に伴い火鉢の需要が減退。植木鉢に製品転換するとともに、花瓶、傘立て、庭園陶器、置物(たぬき、干支など)、食器、タイル、大型陶板等が生産されるようになる。
平成 陶器の特徴を生かした食器類や大物陶器の技術を使った大型浴槽や洗面鉢も多く生産される。多孔質(軽量)陶器や透光性陶器(信楽透器)などの特徴を持つ製品も作られる。