古文書からの抜粋

信楽焼図解(明治5年刊)

  1. 土掘りおよび土運び用具の図 
  2. 土取り場の図 
  3. 土砕きおよび土篩い道具の図 
  4. 土ごしらえの図 
  5. 土漉しの図 
  6. 土干小屋の図 
  7. 壺つくり道具の図 
  8. 壺つくりの図 
  9. 仕上げの図 
  10. 素焼きの図 
  11. 絵かきの図 
  12. 薬漉し、薬掛けの図 
  13. 釉がけの図 
  14. 窯詰めの図(1) 
  15. 窯詰めの図(2) 
  16. 窯焼きの図(1) 
  17. 窯焼きの図(2) 
  18. 腰白耳付茶壺、真黒茶壺 
  19. 石はぜ茶壺、味噌壺と水壺 
  20. 荷造りの図、出荷の図

工芸志料 黒川真頼 (明治11年10月刊)

信楽焼

信 楽焼は弘安年間、近江の国甲賀郡の信楽の長野村に於いて始めて製造す。而れども未だ茶器を造るに及ばず、僅かに種壷(種子を蓄え置く壷なり)、種浸し壷 (その故を知らず)等に止まる。後世これを古信楽という。其の質粗にして砂を含み、甚だ堅硬なり、而して釉は濁黄赤にして、其の上
に透明なる淡青 釉を斑に施せるを以て上等の品と為す。 永正年間信楽の工人初めて茶器を製す。時に武野紹鴎という者り、点茶を以て世に鳴る。紹鴎此の茶器を愛す、因り手称して紹鴎信楽という。 天正年間点茶の宗匠千利休という者あり、亦信楽に於いて製する所の茶器を愛す。世人利休の愛する所の者を以て利休信楽という。 寛永年間点茶の宗匠千宗旦という者あり、宗旦も亦信楽の茶器を愛す。世人宗旦の愛するところの者を以て宗旦信楽という。 是の時に当たりて小堀政一という者あり、政一も亦点茶を能くす。政一信楽の工人に命じて更に一種の茶器を造らしむ。その製法は漉し土を用いる、因りてその 製出する所の器物皆肉薄くして、前製の者に比すれば一層精巧なり。是を遠州信楽という。政一は遠江守に任ぜられる、故に遠州信楽の名あり。 又京師の人本阿弥空中、野々村仁清、陶工新兵衛某という者あり、信楽の土を以て諸器を製す。是を空中信楽、仁清信楽、新兵衛信楽という。爾来其の地の工 人、是等の形容に倣い諸器を造り、業を伝えて今に至る。

森田久衛門日記 「陶器全集第三巻」思文閣1986 より引用

九 月朔日、大津を罷出瀬田まで一里半参る、扨瀬田より水口迄のりかけ、荷物は仁右衛門相添出し、私はかごにてしがらきの方山中七里参り、五味籐九郎様御書、 多罷尾左京殿御留守居小山七郎右衛門殿へ持参仕候、七ツ時に参着仕り宿被仰付候、左京殿御知行之内庄屋長野村善兵衛方に泊まる、扨信楽やきの次第釜所見物 仕る、明朝六ツ時に罷出、水口迄出る、信楽長野より水口迄四里半也、合瀬田より水口まで信楽山中拾壱里半也。

同日、信楽にやき申所四所あり。

長野  但此所左京殿御居城則ここ也、いろいろのもの御やかせ方々御音信御抱三人有。
てうし 此二ヶ所水口へ出申道也。
まき  此まきと申所にてはんとやき申を見物。
きのせ 此きのせ前々あり、此頃は焼き不申候。

同 日、釜の次第下ノ火口ほそく、又末のかまほそく、中ほどふとく候、かま打ち申事則やけ土を以て打申由。 同日、昔やき申は大かまやきの由、今にも其つぼなど有之候よし、大かまやきと申は下より上迄中にへだてなし、下より上までやき物詰め、中に火口よりすへ迄 へかひつみ申由、扨やき申事も下一口にてたき申由。