信楽焼
信 楽焼は弘安年間、近江の国甲賀郡の信楽の長野村に於いて始めて製造す。而れども未だ茶器を造るに及ばず、僅かに種壷(種子を蓄え置く壷なり)、種浸し壷 (その故を知らず)等に止まる。後世これを古信楽という。其の質粗にして砂を含み、甚だ堅硬なり、而して釉は濁黄赤にして、其の上
に透明なる淡青 釉を斑に施せるを以て上等の品と為す。 永正年間信楽の工人初めて茶器を製す。時に武野紹鴎という者り、点茶を以て世に鳴る。紹鴎此の茶器を愛す、因り手称して紹鴎信楽という。 天正年間点茶の宗匠千利休という者あり、亦信楽に於いて製する所の茶器を愛す。世人利休の愛する所の者を以て利休信楽という。 寛永年間点茶の宗匠千宗旦という者あり、宗旦も亦信楽の茶器を愛す。世人宗旦の愛するところの者を以て宗旦信楽という。 是の時に当たりて小堀政一という者あり、政一も亦点茶を能くす。政一信楽の工人に命じて更に一種の茶器を造らしむ。その製法は漉し土を用いる、因りてその 製出する所の器物皆肉薄くして、前製の者に比すれば一層精巧なり。是を遠州信楽という。政一は遠江守に任ぜられる、故に遠州信楽の名あり。 又京師の人本阿弥空中、野々村仁清、陶工新兵衛某という者あり、信楽の土を以て諸器を製す。是を空中信楽、仁清信楽、新兵衛信楽という。爾来其の地の工 人、是等の形容に倣い諸器を造り、業を伝えて今に至る。
九 月朔日、大津を罷出瀬田まで一里半参る、扨瀬田より水口迄のりかけ、荷物は仁右衛門相添出し、私はかごにてしがらきの方山中七里参り、五味籐九郎様御書、 多罷尾左京殿御留守居小山七郎右衛門殿へ持参仕候、七ツ時に参着仕り宿被仰付候、左京殿御知行之内庄屋長野村善兵衛方に泊まる、扨信楽やきの次第釜所見物 仕る、明朝六ツ時に罷出、水口迄出る、信楽長野より水口迄四里半也、合瀬田より水口まで信楽山中拾壱里半也。
同日、信楽にやき申所四所あり。
長野 但此所左京殿御居城則ここ也、いろいろのもの御やかせ方々御音信御抱三人有。
てうし 此二ヶ所水口へ出申道也。
まき 此まきと申所にてはんとやき申を見物。
きのせ 此きのせ前々あり、此頃は焼き不申候。
同 日、釜の次第下ノ火口ほそく、又末のかまほそく、中ほどふとく候、かま打ち申事則やけ土を以て打申由。 同日、昔やき申は大かまやきの由、今にも其つぼなど有之候よし、大かまやきと申は下より上迄中にへだてなし、下より上までやき物詰め、中に火口よりすへ迄 へかひつみ申由、扨やき申事も下一口にてたき申由。